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板垣退助と西郷隆盛肖像画

眠雷・西郷像

 西郷隆盛は生涯で一度も写真を撮らなかった。したがって、西郷がどんな顔の人物だったのか、本当のところはわからない。
 もっとも有名なキヨソネの肖像画も、実弟・西郷従道と従兄弟大山巖の顔の上下をくっつけてそれらしく描いたモンタージュにすぎない。あるとき西郷従道を訪ねた板垣は、壁に掛けられたキヨソネ作の肖像画を見て、「この画はまるで似ていないじゃないか、従道君」とまで酷評したという。

 板垣退助と西郷隆盛は、薩土武力討幕の密盟を結んだ慶応3年から征韓論にやぶれて下野する明治6年まで、極めて親しい仲だった。
 明治31年12月、東京・上野公園に西郷隆盛銅像が完成する。あまりの出来の悪さに憤慨した板垣は、その後、改鋳することを企てた。そんな板垣のもとを訪ねて、「西郷の真像を描きたい」と申し出たのが熊本出身の画家・松永眠雷だった。

 明治40年、板垣や西郷の未亡人イト、西郷従道未亡人、大山巖ら親戚故旧の人々の意見を聞き、修正に修正を重ねて眠雷の西郷肖像画は完成する。これを板垣は「すくなくとも出来の悪い写真位のものになった」と評し、自ら監修した『自由党史・上巻』巻頭に掲げた。板垣の自信ぶりがわかる。
 また、23歳の時から西郷に随従したという高島鞆之助までも、「新聞や雑誌などに出るのは、大抵似ても似つかん物が多いが、唯だ近頃光永と云ふ画家の描いたものだけは、生存して居る人々に見て貰っただけ、先づ間違の無い南洲翁と認めても好い、是れが一番能く肖(に)て居るんぢや」と評価していることは注目に値する。

 これまで顧みられることのなかっった光永眠雷の西郷隆盛肖像画はいかにして制作されたのか?新資料に基づいて書き上げ、「土佐史談」第259号に発表した論文「板垣退助と西郷隆盛肖像画」を公開します。
 以下をクリックしてお読み下さい。

PDFによる「板垣退助と西郷隆盛肖像画」はこちら
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中江兆民翁之碑

兆民碑
    中江兆民翁之碑(東京江東区・亀戸(かめいど)天神社)

 JR総武線亀戸駅北口を出て、明治通り、亀戸天神通りを10分ほど歩けば亀戸天神社に着く。ここに中江兆民翁之碑があることを知る人は意外に少ない。
 『社記』によれば、亀戸天神社は開祖信祐(しんゆう)が筑前太宰府にいた頃、正保3年の一夜、菅神の霊示を蒙り、その夢中、『十(とお)立ちて栄ふる梅の稚枝(わかえ)かな』という発句を得た。よつてその後、飛び梅をもつて新たに神像を造り、これを護持して江戸に下り、天満宮を亀戸村に勧請したのが始まりとされる。境内には梅はもちろん多数の藤が植樹され、学問の神様・菅原道真を祀る神社にふさわしく数多くの筆塚が立ち並ぶ。

 中江兆民碑建立の計画が始まったのは、明治39年2、3月頃と思われる。専制圧制の時代、自由・平等・博愛の三大主義を大声疾呼した一奇傑の芳名が風塵のまま消え失せるのを惜しむ人々が「都下に適当の地を卜(ぼく)して紀念碑を建設」すべく熟議を重ねた結果、生前の政友、知人、門弟から建碑の資金を募ることとして、発起人総代板垣退助、大隈重信、大橋新太郎、栗原亮一、松田正久、安藤謙介がそれぞれ趣意書を配布。会計・通信等一切の事務は兆民門弟の野村泰亮、佐野尚が担当し、事務所は青山南町5丁目五十八番地佐野尚方に置いた。碑設計の意匠は板垣が進んでこれに当たり、同年8月30日を募集締切期限とし、9月初旬にはその工事に着手する予定であった。ところが容易に資金は集まらなかったものとみえ、結局、除幕までに2年の歳月を要した。
 亀戸天神社内に碑が建立されたのは、明治41年4月4日のことである。雨の中で行われた除幕式典には、兆民の妻・ちの、長女の千美、それに板垣退助ほか数十名が来会した。式が終わって酒杯の間、板垣が語った兆民生前の懐旧談が面白い。原文のまま紹介しておこう。

 「兆民先生は無霊魂論の先鋒にして、余は先生の枕頭(ちんとう)に坐し論争する所ありたるも、命旦夕(たんせき)に迫れる病人の事故、強て争ふを止め、先生に謂(いい)て曰く、先生が生前に於て頑張るは敢て不可なしと雖(いえど)も死後の事は家族の情に任すも可ならんと云ひたり。元来先生は墓を造るに及ばず、火葬にしたる後の残骨は海に投ずるも可なりとの論にして死後のことを遺言したりといふが如きは全然無根なり。青山墓地に於て葬儀を執行せしは亡友の取計(とりはからい)にして決して先生の意思にはあらざりしなり。斯(か)かる次第故、建碑の事に就ても、招魂とか、或は慰霊とかいふ如き意味を付するは不都合故、寧(むし)ろ翁の生前を追懐する紀念なりとするを適当なりと余は信ず。先生の性行に就て一言せんに、世間にては先生を奇人なりと云ふといへども、余は以て見るにコハ寧ろ失当なり。先生は常に悪(にく)まれ役は嫌ふところなるも、余は悪まれ役となり世道人心に裨(ひ)益(えき)するあるべしとて盛に世間を罵倒したり。且先生は其罪を悪んで其人を悪まずと云ふ主義を実行したるを以て、罵倒されたる人々も少しも恨(うらみ)を懐(いだ)かざりき。亦以て先生の徳の高かりし一班を知るに足れり。曾て先生は商売も学理を以て押通し得べしと信じ、愚妻に向つて、貴家は非常に貧乏なるも私が此度商売に於て利益を得ば大に財政上の援助をなさんと言ひ、北海道にて商業に従事せしも失敗に終りたり。又、吾輩の処へは何時も酔に乗じて来るを常とし、実は少々迷惑に感じ、一日書生に命じ、先生が酔て来たるを待受け布団捲(まき)にせし処、先生布団の中より酔は既に醒めたれば許せと言ふ。因て布団の中より出せし処、其書生に向ひ、君は愉快な奴だと謂つて其より鰻飯(うなぎめし)の馳走をしたと云ふ事なりき」(『東京朝日新聞』明治41年4月5日)

 意外に思う人もあるだろうが、兆民は板垣から蒙った大恩を終生忘れず、また板垣も兆民を愛し、病床の兆民と家族の相談役として心を砕いた。明治34年12月17日、東京・青山墓地で行われた兆民の告別式で板垣が弔辞を述べたことはよく知られている。
 碑の裏に、発起人総代板垣退助、大隈重信、松田正久ら、それに賛同者として大阪浪人宮地茂平、川上音二郎、寺田寛らの名が刻まれているのが嬉しい。碑が鉄製の枠でしっかり補強されたのは関東大震災の影響だろうか、理由はわからない。
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鷄肋庵主人

Author:鷄肋庵主人
ただの鶏ガラだが、スープの出汁くらいにはなるので、捨てるのはどうかという程度の人間。

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